Viento desde Borinquen
-Ritmo, Sabor y Sentimiento-
2009年 02月 24日
Joe CubaとPin~on
2/15にJoe Cubaが亡くなった。Cubaなんて芸名つけてたけど、NY生まれのプエルトリカン、本名ヒルベルト・ミゲル・カルデロン。


もともとジョー・パナマっていうパナマ人のバンドにいて、リーダーの引退で、そのバンド名を受け継ぎ、キューバ人のプロモーターの意向で「ジョー・クーバ」に改名したカルデロン。

音はちっともクーバなんかじゃなくて、ビブラフォン入れて、R&Bのノリで、そしてプエルトリカンらしいセンティミエントで、ブガルーの世界に突き進んだ。コンガ叩けば音はでっかいし、おしゃべりで、サービス精神たっぷりで、酒飲みで、食いしん坊でと、人間的でボリクアな人だった。


彼の"El Pito"、"Bang bang"などのブガルーのナンバーは「ラテン」ってことを意識しないで耳にしたのが最初だった気がします。

英語の曲だと思ってたような。NYで彼が大人気になったのは、やはりあの英語又は英語交じりの歌詞の曲、そのリズムとロマンチックな(時にエッチな)歌、そしてビブラフォンのサンド。

「ジョー・クーバの音って、なんかニューヨークのあこがれみたいなもんだったよな」と、60年代に小学生だったプエルトリカンの友人が話してくれたことがある。マンボのビッグ・バンドとは明らかに違う、小編成のかっこよさもあったって。


YouTubeでJoe Cuba Sextet"Bang Bang"を見る。オリジナル・メンバーの再開のTV番組




Joe Cubaって、ブガルー時代の大活躍の後、ファニア全盛の時代にはなんだか割食った感じがするけど、彼のヒットはNYであろうと、PRであろうとしっかり聴かれてた。例えば、1962年のアルバム"Steppin' Out"からのヒットの一つ"Cachondea"。

”~Como que te cachondea vagabundo, como que te cachondea~”

YouTubeでJoe Cuba Sextet"Cachondea"を聴く。ジョー・クーバの映像は無し


この曲、チェオ・フェリシアーノの作品だけあって、同じアルバム中の曲に比べ、NYのビルの光より、街角の不良っぽさが前に出てる。

そう、マルビン・サンティアゴが好きな人はピンと来るかも。
マルビンの大ヒット、1979年の"Fuego a la Jicotea"のソネオにはこの"Cachondea"のフレーズが織り込まれている。

"como que te cachondea jicotea, como que te cachondea viene a verla~"


YouTubeでMarvin Santiago"Fuego a la Jicotea"を聴く。


マルビンは当時まだ15才。プエルトリコ/サンファンのサントゥルセからネメシオ・カナレスのカセリオに引っ越してワルガキだったころ。

→マルビンを知らない人はこちらをどうぞ。

◆マルビン・サンティアゴ逝く
◆ラティーナ誌に書いた記事1
◆ラティーナ誌に書いた記事2

◆◆◆


ジョー・クーバの悲報を知って、彼の作品を聴き直している中で1976年の"Cocinando la Salsa"に手が止まった。

くいしんぼなプエルトリカンに相応しいタイトルだけど、「じゃ今回は俺がサルサを材料に料理してやるか」という気持ちも感じる作品。


そうだ、彼の追悼に、週末はプエルトリコ料理を作ろう。
丁度、2週間前に入手したプラタノがいい具合に熟している。
ということでピニョン(Pin~on)を作りました。

◆◆◆



1. プラタノは外は黄色く/黒く変わり、中は熟してやわらかめ、甘酸っぱくなったもの、つまり熟したものを用意。皮をむき、縦に4枚程度に切ります。厚さは、お好みよって薄くも厚くもどっちでもあり。










2. サラダ油、またはラードで揚げます。軽く色づいて火が通ったらOK。引き揚げて油を切り、耐熱の容器に敷きます。











3. 1、2と用意しながらにフィリングを作ります。牛ひき肉(好みにより合挽きも可)500gをフライパンで塩少々を振りつつ、ソフリートまたはレカイート、アチョーテ、オレガノなどの調味料を加え、軽く炒め、ピーマン(緑、赤)、玉ねぎ、シラントロ、ゆでいんげん等をみじん切りにしたものを入れて合わせ炒めます。オリーブ(タネ抜き&赤ピーマン詰めのグリーン・オリーブ)を入れる人も多い。今回は入れました。







また、かたゆでたまごのみじん切りやレーズンやケイパーを入れる人もいます。ハムのさいの目切りを入れる人もいます。キューバ料理の"ピカディージョ"っぽい作り方でもOK。(って、説明になってないか。ピカディージョ、分かる人も限られるかもねぇ・・・。ティト・プエンテも曲にしてるぐらいなんですが)








4. 2. の上に卵4個をよく泡立てたものを半分かぶせ、3のフィリングをのせ、プラタノをのせ、またフィリングをのせ、またプラタノを乗せて、最後に残りの卵をかけます。卵はつなぎです。









これをオーブンで焼きます。プラタノの上にチーズを乗せる人もいます。これは伝統的ではないけど、ラザニア風にして出すレストランもあり。モッアレラならほとんどプラタノの風味の邪魔をしないからいいでしょう。今回は乗せてみました。


5. 容器にアルミ・フォイルをかぶせ、オーブンを180°Cくらいに設定して25分程度熱して出来上がり。








◆◆◆


さていただきます。付け合わせにPollo asadoのサラダも用意しました。
あー、まずまずの出来だわ。プラタノの熟し具合も大変よろしい。









BGMはジョーの"WANTED DEAD OR ALIVE"をかけました。

60年代初めわ、マンボをカッコよく思わなくなったNYのプエルトリカンの若いにーちゃん、ネーチャン、R&Bやカル・ジェイダーっぽいラテン・ジャズもかっこいいじゃないかと思ったにーちゃん、ねーちゃん。そんな彼らの大きな支持を受けたブガルー。

ブガルーはラテンがアメリカの音に進んでいった音。同時並行してブームになったチャランガ/パチャンガ。こっちはマンボからキューバに少しもどった感じ。


でもそのあと、音はどちらにも進まなかった。というか、また両方から揺り戻した上で、NYの、そしてNYプエルトリカンの本国たるプエルトリコにあった、コルティーホやグランコンボ、オリベンシアなどの音から発展する形で音が進んでいった。

そして、そこにはカリブの混ぜご飯的な周辺の音、例えばメレンゲやカリプソ、クンビアですらちりばめられていた。そんな混ぜご飯を一つのお皿にまとめたものがサルサ。だから、サルサはNYのレストランで出来たわけでもない。NYにはレストランが多かったし、NY風サルサの料理本は世界に売れたけど。

そんなわけで「80年代、NYでサルサは下火になり中心はプエルトリコに移った」、とかいう書き方があるけど、これもちょっと違う気が。
80年代にはプエルトリコはプエルトリコで、コロンビアはコロンビアで、ベネズエラはベネズエラで、ペルーはペルーで、それまでの地元バンドの積み重なりがあって特徴のあるサルサが生まれている。そんなサルサは各々の場所で暮らす人々の心に響く歌詞をもっている「歌」でもあるってとこも、とても大切。


だからサルサはいろんなものが交じり合って美味しくなったソースなのだ。

◆◆◆


ジョー・クーバが大人気の頃、ブガルーを、チャランガを、コルティーホのボンバを、プレーナを、R&Bを、ロックを聴きながら、週末のホーム・パーティーでプエルトリコ料理を食って楽しんでいただろう、NYやプエルトリコの若者たち。


そのころのピニョンは、伝統とは違うけどモッツアレラ・チーズが乗った新しい味だったんだろうか?


by mofongo | 2009-02-24 22:15 | Musica/SALSA | Trackback | Comments(6)
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Commented by オヤマ at 2009-02-26 21:03 x
彼の当時の全盛期の音というのはどのようにプエルトリコで受けいれられていたのでしょうか?

チェオがそれなりのステータスで帰島したであろう事実からもジョー・クーバ時代の成功が島で評価されていると想像はできるのですが、あの音を島で受け継いだ誰かが居るなんて痕跡はとんと見かけません。

あのヴァイブ入りのセクステットを誰が何時何処で始めたのか?なんてことが重要なのかもしれませんが、コルティーホのスモールコンボとは違うNYの音なんでしょうね。
チェオの声はプエルトリコなんですよね。しかもポンセの黒。ひょっとして評価の中心はそこだったのか?とも考えます。

リッチ・レイとボビー・クルースは(宣教も含めて)島へ戻る道を選んでいますが、なぜ彼は同じように島へ向かわなかったのか?それほど信心深くはなさそうですが。

日本公演の時は島の出というよりも、まさに「NYの芸人さん」風情であったことを思い出します。

故人の冥福を祈るとともに、その功績を検証したいと思います。
Commented by mofongo at 2009-02-27 02:29 x
ジョー・クーバの島での後継の探求には、やはり1960年代初頭の島のシーンの検証から、と思ってます。

それはこのプエルトリコというナゾの島のいつもの特徴、ラテンやカリブと北米の接点という「音楽的ムラート/ムラータ」的な底ぢからと関係があると思うからです。

50年代末から60年代は島では"Nueva Ola"と言われた時代。

カリベ・ヒルトンではパナメリカーナが演奏し、横のエスカンブロンではポール・アンカのショーが。翌日はそこでコルティーホ。4チャンネルに結成されたばかりのグラン・コンボが出演し、7チャンネルではルセシータ・ベニテスとチューチョ・アベジャネがロックン・ロールっぽいポップスを・・・という時代。

チューチョの他にもたくさん出ました。ラファエル、ウイルキンス、リセッテ、セリーネス、タミー・・・

この系譜はいわゆる"Bohemia"の流れになってその内島から消えたようにも見えます。ブガルーと同じように。

で、リズムやバンド編成は後継者が見当たらないんですが、その後の「センス」「フイーリング」に大いに影響を残している思うのです。そんなところを今検証中ですが、はたしてまとまるか?
Commented by オヤマ at 2009-02-28 20:25 x
島で言えばカタリーナ翁のソロでミレーがバイブ編成でしたね。でもこれはチェオのアナカオナのノベルティな再現で後に続きませんでした。
NYではブガルー期からはNEW SWING SEXTETをはじめフォロワーが多くサルサ期には7ポテンシアスとか90年代はカラバリとかホセマングアルJrのソンボリクアなんかありますよね。最近ではGrupo Latin Vibe。
コロンビアでもガレーがその名もNEWYORK SEXTETとか。
でも最近のものはジョーの猥雑さよりもマンボやラテンジャズの要素が強い洒落た部分に重きがあるような気がしますね(ソンボリクアはちと違いますが)

で、リズムの捉え方は意外と初期のコルティーホのコンボに似てるんですよね。ティンバルとコンガ中心の正調キューバンというよりは2拍子系のノリが感じられる雑多な感じ。生真面目なマンボの御仁には嫌われそうな悪サがあります。どっちが先かはわかりませんが。コロンビアではフルーコも悪サでカバーしてますしね。

そういったところがサルサとして共通に持ちつづけてるところではないでしょうか?
Commented by Sunao at 2009-03-17 04:25 x
ニューヨリカンたちにとってはポピュラーでも、
島においては、ジョーはアメリカンドリームの達成とブガルー創出への貢献について評価がされることがあっても、
それ以上に聴かれているグレートなミュージシャンが多すぎてそんなにメジャーなわけじゃない…て感じみたいですけど(^^;
LPやアルバムを聴いたり読んだりすると、彼自身のリズムはやっぱり島の間合いとは異なるような感じで。
とてもいいプロデューサーとかバンドメンバーに恵まれた、というところなのかしらん?と推測してますが、真相はよくわかりません~

ピニョン?ピオノノ?がロイサ近辺のキオスコで食べたのとだいぶ形状が違うからびっくりしました。
明日その再現にトライする予定です☆わくわく
Commented by S at 2009-03-17 04:35 x
あ、ご冥福をお祈りしますってひとこと忘れた。
すみません。祈ったんだけどだいぶ時間が過ぎてしまったー(^^;
Commented by mofongo at 2009-03-17 20:23
◆オヤマさん
最近のものはやっぱりジャズの色が強いのは仕方ないですね。あえて系譜を言うならプエンテ、ジェイダー、ハッチャーソンとかでしょうね。

リズムは大きく言えばやはり正調キューバとは違いますね。聴き比べて面白いのは、初期とブガルー絶頂期とは同じGuarachaでもニュアンスが違うところ。

チェオか来るまでは、島育ちのプエルトリカンがいなかった事も彼の音をあれこれ聴いて楽しむ要素の一つと思っています。

◆Sunaoさん
ピニョンとピオノノは別物でだけど、どっちも好き。

ロイサのピオノノはこちら。
http://puertorico.exblog.jp/8203751/

ピニョンはむしろ上のページにある「パステロン」と兄弟。パステロンも大好きなんですけど、ピニョンでアマリージョ使えるのならやっぱこれが一番好きですね。

美味くできたら食わせてね♪
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