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2007年 06月 25日
あー眠いわ。レゲトンの現場は素晴らしい。日本ではムリだよなあ、よっぽどDJがしっかりしてないと。 DJ Desordも大阪いっちゃったし、東京やレゲトンだけで繋げるDJなんかいるかな。ファンは絶対いるのに回し役がいないのは残念だ。自分でやろうかな。 床を這ってシャワーを浴びに行く。こんな時は朝の浜を走って朝飯に行くに限る。 Calle 13の新譜とルビー・ハドックの"ザ・エンタテイナー"を持って出る。Calle 13のレシデンテのラッピンがアッシュフォードの通りに合う。アトランティック・ホテルまで走って浜に出る。おお、美しい。今日の朝は波が静かだ。そこから浜を戻り、病院の手前で通りに出てスーパーへ。新聞を買い、ハモン&ケソのサンドイッチを調達してまた浜に戻る。CDをルビー・ハドックに替える。 ああ、ティト・ゴメス、なんで死んじゃったんだろ、とか思いながら新聞をめくると、昨日の葬式の記事。歌で送ってる写真。 こうやって故郷に戻って来たんだなあ。 ラテンの世界じゃプエルトリカンは、一番自国から離れて暮らす・暮らした人が多い人。それだけに、故郷を思う気持ちの重みは共有してる。自分も海外暮らしを10年して、今も年2-3ヶ月は旅回り。でも帰ろうと思えば帰れる自分と、そうでない人たちとの気持ちは絶対に違う。 最近出版された"The Puerto Rican Diaspora"という写真集がある。Frank Espadaが、いわゆるアメリカ本土とハワイの35ものプエルトリカン・コミュニティー、El Barrioの人たちを20年にわたって撮り続けてきた写真&インタビュー集だ。 例えば1899年にハリケーン、サン・シリアーコによりで島の農業が壊滅的被害を受けたとき、プエルトリコからハワイに5,000人もの人が働きに移住している。ニューヨークは言うに及ばず、自動車やそのほかの製造業、サービス業があるデトロイト、シカゴ、フィラデルフィアなどにも合計3-4百万人の人が移住している。 しかし、言葉も生活習慣も違う土地での生活は容易ではない。生活はなかなか良くならず家族を軸に必死に生きる。そんな人々の写真が一杯つまった本。 サルサという音楽がどうしてプエルトリカンを中心して生まれ、それがラテンアメリカに広がったのか、それは、リズムや音楽形式の話の前に、歌としての共感があったからだと思う。良くならない生活、故郷を離れざるを得ない状況。そしてそんなどうしようもない現実は現実として、いや現実だからこそ、それを吹き飛ばすような歌とダンスの一瞬。 ティト・ゴメスの事がまた浮かんだ。彼がNYでの保護観察期間を終えて、居を構えたのは結局コロンビア。奥さんの故郷でもある。彼もやはり家族を軸にして生きながら、自分の歌を一番求めていたコロンビアの人々の中で生きることを選んだのだろう。 まさにプエルトリカン・ディアスポラの一人だったのだなあ。
by mofongo
| 2007-06-25 03:29
| Musica/SALSA
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