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2008年 03月 31日
サルサを中心にしたディスク・ガイドが先週末に出ました。 『米国ラテン音楽ディスク・ガイド50's-80's』 (リットー・ミュージック)という本。 久しぶりのガイド・ブックです。 '50-'80年代初のNYを中心としたラテン音楽から400枚を選んで1枚240字で解説。オール・カラーでジャケ写真もたっぷり楽しめます。この400枚の内、1割ほど書かせてもらいました。 この本のお勧め所は、サルサが'60年代に生まれてから'80年代初くらいまでの間の「サルサの基本盤」がしっかり選ばれてる所です。「サルサ」ってなんだ?何を聴いたらいいの?誰が重要アーティスト?サルサが好きなんだけど系統だって聴きたい、などと言う人には良いガイドになると思います。 と言うのは監修には名前を連ねてませんが、選盤には、名著『サルサ天国』、『サルサ番外地』の著者でイラストレーターの河村要助さんが大きく関わっているからです。ストライク・ゾーン。 プエルトリコの老舗のレコード店Viera Discos(写真左)、NYの老舗の"Casa Latina"や"El Barrio Music Center(写真下)"などの基本品揃えと考えて間違いありません。(中には、これらの店でも手に入らない名盤もあったりして。) そして解説者の皆さんこれらサルサを愛してるだけでなく、ほんと良く知っている人ばかりです。(敬愛する飯田さんにはもっと書いて頂きたかったです) 第三章「サルサ」の所で岡本郁生さんが「サルサ=キューバ音楽ではない」と2回も書かれてますが、この事はこの「サルサの基本盤」のラインアップを見て聴いてみれば良く分かると思います。サルサの誕生の現場にはキューバ勢はセリア・クルースなど若干の亡命組しか居なかったので、当然と言えば当然なのですが。 ラテン世界では「常識」のこのポイントが、日本でズレて理解されてるケースも良く見ますが、これが「基本」に戻るのにも役立つでしょう。 解説を依頼されたとき、内容に就いては特に指示はなかったので好きに書きました。でも他の執筆者の方々のものと併せ出来上がったものを読んでみると、別々に書いたのにベクトルが合っているのが面白いです。 例えば「サルサ」の章の解説ににどんな国名が出てくるか数えてみました。(←ヒマ人・・・) プエルトリコ:76 キューバ :28 ベネズエラ : 5 日本 :0 サルサは圧倒的に「プエルトリコ」がキーワードですね。 そんな事も頭に入れながら読んでいただければうれしいです。 サルサに加えて、NYでのラテンとして第一章はJazzとの係わり合いを、第二章はブガルーなどを、第四章はメレンゲを、第五章はディスコ、ロックも取り上げています。こちらにも聴いてみたくなるものがたくさんあると思います。 さて、冒頭にこの本の扱う'50年代-80年代より前のラテン・音楽について解説があります。序章ですね。しかし、残念ながら紙面が限られている為、多分書ききれなかったろうな、と思うことがあります。 と言うのは、早速手に入れた友人が序章を読んで 「キューバ音楽の事とNYへの影響は詳しく書いてあったけど、プエルトリコの影響はどうなのよ?」「サルサ=キューバ音楽ではないというポイントが序章では分かりにくかったけど」 との質問をくれました。 序章はあくまで本編への導入部なので、詳しくはレコード紹介を、と言う事だと思いますが、「音楽大国キューバ」という事でキューバ音楽の歴史が詳しく書かれた一方、プエルトリコは「島から引っ越してきた」というタイトルが前に出たことと50年代以前のニューヨークやラテンでのプエルトリコ系の活動が分からなかったことが質問の理由のようです。 そこで、ちょっとここに自分なりに'50年代以前のプエルトリコ関係の話を付け加えて見ることにしました。序章と併せ読んでいただけたら何かイメージがつかめるかもしれません。 さて、第三章ではサルサがプエルトリコ人を中心に形作られて行った事がわかります。 しかし、「59年のキューバ革命でキューバ人音楽家の供給がなくなりプエルトリコ人が急に出てきたのか?」と言うとそうではありません。 ホピュラー音楽のエリアではマンボやサルサより以前にプエルトリコからNYにやってきた音楽家やそこで活躍していた音楽家が沢山います。まずざっと名前だけあげてみます。 (気合入れて、個々の音楽家の事も書いて見たいと思うのですが) まず20年代から40年代のNYならこれらの音楽家の活躍が頭に浮かびます。 【ラファエル・エルナンデス/Rafael Hernandez】 生涯に2000曲もの作品を残した、ラテン・アメリカを代表する作曲家です。 「エル・クンバンチェロ」「カチータ」「プレシオサ」などなど、ヒット曲は限りなく、プエルトリコ、キューバ、メキシコなど彼の作品はラテンアメリカでとてもに愛され続けています。(写真の真ん中の人) ちょっと面白いエピソードをご紹介しましょう。キューバでも人気のエルナンデスですが、キューバのソンを代表するグループの一つ、トリオ・マタモロスが1928年にNYに行った時その頃既に人気作曲家だったエルナンデスに会い、その後1930年キューバでエルナンデスの"Buche y Pluma Na'ma"を録音して大ヒットさせます。 そしてその約10年後の1939年、NYで万博が開かれ、キューバも出展します。その時のキューバの公式本「キューバ・ポピュラー音楽」というパンフの中の「キューバを代表する80曲」としてこの曲と「カチータ」が入ってるんです。 キューバの人の勘違いでありますが、彼のを事をキューバ人と思ってしまう程、いかに彼の曲がキューバの人々に愛され、影響を与えたかわかります。 そういえば最近「ルンバの歴史」というマイアミ製作のDVDを買ったのですが、その最後に作品の監督が「キューバ音楽に貢献した重要な音楽家」を挙げて行くんです(西語)。エルナンデスも入っています。ボビー・カポも。ところが日本語字幕では「キューバ人音楽家」と紹介されてました。 ここにも勘違いがあります。こんな風に、キューバ人だと皆思い込んでしまうくらいエルナンデスのキューバに、そしてラテンに与えた影響は大きいと言う事だと思います。 自分がキューバに行った時、旧市街で、ホテルで出合ったソンのバンドに「カンパニータス・デ・クリスタル」「ペルフメ・デ・ガルデニア」「プレシオサ」と言ったラファエルの曲をリクエストするとたちどころに歌ってくれました。キューバではエバー・グリーンなのですね。 →動くラファエル・エルナンデスをYouTubeで見る こんな調子でご紹介してると終わらないので、後は名前だけ。 【マヌエル・ヒメネス"カナリオ/Manuel Jimenez "Canario"】 【ペドロ・フローレス/Pedro Flores】 【フリオ・ロケ/Julio Roque】 【プラシド・アセベド/Placido Acevedo】 【ジョニー・ロドリゲス/Johnny Rodriguez】 カナリオの様にプエルトリコ固有の音楽であるプレーナをベースにより洗練された音をNYで聴かせたグループもいましたし、エルナンデスを代表とする、「歌」を聴かせる沢山のグループもいました。 また'30年代から'50年代はジャズやマンボのオルケスタが活躍した時代でもありますが、楽器の名手やバンドリーダーも色々浮かびますね。 【ファン・ティソール/Juan Tizor】 デューク・エリントン楽団の名トロンボーン奏者&"キャラバン"(Caravan)、"パーディド"(Perdido)、コンガ・ブラバ(Conga Brava)などエリントンのヒット・ナンバーの作曲者です。(写真中)アフロ・キューバンよりずっと前にラテンとビッグバンド・ジャズを融合させたといえるかも。 ソリストとしても素晴らしくその"スイート"なソロで聴衆を魅惑しました。1929年から15年間エリントン楽団に在籍。後にハリー・ジェイムス楽団やネルソン・リドル楽団でもプレーしています。 →YouTubeでDuke Ellington Bandのファン・ティソールの姿を見る(トロンボーン・セクションの真ん中の人)1937年 【ノロ・モラレス/Noro Morales】 ザビア・クガート、マリオ・バウサ、マチート・・・と参加した楽団も一杯。自己のオルケスタでも大人気で多くの影響を残したピアノ奏者。サンファン生まれ。 ”セレナータ・リトミカ”(Serenata Ritmica)、”ビン・バン・ブン”(Bim Bam Bum)、"マリア・セルバンテス"(Maria Cervantes)など、数多くのヒット曲を持っています。 写真の後ろの列左から2番目がノロ。これはNYのイスパノ・シアターに出演時のもの。競演のマチートやマエストロ・ラディ(クアトロもった人)も一緒に写ってます。ラディはプエルトリコのクアトロの達人。つまり、当時のニューヨークの観客はマチートのマンボ、とノロのピアノ、ラディのヒバロを同時に楽しんでいたことが分かります。 書いておかなければならない事は一杯ありますが、この辺で。 →YouTubeでティト・プエンテ演奏の"Maria Cervantes"を見る 【セルソ・ベガ/Celso Vega】 ポンセ生まれのトランペッター&バンドリーダー。後のサルサ時代には、コロの大名人として多くのレコーディングに参加している、若きジャジョ・エル・インディオを擁したバンドは人気でした。 写真はCBSのラジオ番組に出演時のもの。レコード録音も多く、またラジオを通じて彼らの演奏はラテンアメリカに広がり"La Voz de America"(アメリカの声)というニックネームも得ています。写真の一番右が、ジャジョ。 →YouTubeでジャジョ・エル・インディオのボレロを聴く 【マリオ・デュモント/Mario Dumont】 ジョニー・ロドリゲスやホセ・ルイス・モネーロのボーカルを擁したミゲリートの楽団はNYで絶大な人気を博しました。 【ミゲリート・ミランダ/Miguelito Miranda】 ビティン・アビーレスを擁し、プエルトリコを中心にNYでも活躍したオルケスタ。60年代には若きルイス・ペリーコ・オルティスも在籍していた名門。 【セサル・コンセプシオン/Cesar Concepcion】 バンド・リーダー&トランペット奏者。NYでエディー・レバロンやザビア・クガート、ペドロ・フローレスなどのオルケスタに参加したあと1942年プエルトリコに戻り複数のオルケスタに参加後1947年に自分のオルケスタを結成。カリベ・ヒルトンやホテル・フランボイアンで演奏、人気を博した。 彼のサウンドのユニークな点は、ビッグバンドジャズのスタイルにプレーナを織り込んだ音。歌手のジョー・バジェ(Joe Valle)を擁した、"ポンセ"、"ア・マヤグェス"などのご当地ソング系のダンス・サウンドが大ヒット。SeecoやAnsoniaレーベルでの録音盤はNYでも人気で何度も演奏も行ってます。 彼のオルケスタにはサックスにリト・ペーニャが参加していたが、彼がリーダーを伝めたオルケスタ・パナメリカーナには若き日のイスマエル・リベラが歌手を務めるというサルサに繋がる系譜の人でもあります。 【ラモン・モンチョ"・ウセラ/Ramon Moncho Usera】 プエルトリコのポンセ生まれ。ピアノ、クラリネット、サックスを学び21才でパリに飛び、オーケストラに参加。欧州各国の公演を重ね25才でNYに戻り、数々のバンドで活躍。 またアレンジに秀で、30年代から40年代、ペドロ・フローレスのカルテート・フローレスのRCAへの録音の多くを編曲しています。 次の二人は言うまでもないですね。 【ティト・プエンテ/Tito Puente】 左のジャケはセリア・クルースとの共演盤"Cuba y Puerto Rico son..."。セリアがキューバ、ティト・プエンテがプエルトリコですね。このアルバムのタイトルはプエルトリコの女性詩人ロラ・ロドリゲス・デ・ティオの言葉「キューバとプエルトリコは鳥の両翼」から来ています。 カリブ発の音楽「Musica antillana」の2つの産地は鳥の両翼である事をよく表していると思います。 →YouTubeでティト・プエンテ演奏によるラファエル・エルナンデス作の"El Cumbanchero"を見る 【ティト・ロドリゲス/Tito Rodriguez】 ティト・ロドリゲスはプエンテ、マチートと共にNYのマンボ時代の人気を争ったバンドリーダー&歌手です。左のジャケのように、ハンサム・ガイなので彼の歌にうっとりな女性ファン続出でした。この「歌」というところが、トリオ、ボレロの人材を輩出したプエルトリコの一つの側面でもあり、それはサルサではチェオ・フェリシアーノからヒルベルト・サンタ・ロサまで貫いています。 →YouTubeでティト・ロドリゲスのボレロを聴く プエルトリコ人のバンド・リーダーの楽団以外でも沢山のプエルトリカン・ミュージシャンが重要なメンバーとして活躍していました。 例えばザビア・クガート楽団ならペドロ・ベリオス、イスマエル・モラレス(fl)、ホセ・ピーニャ・ピニータ(tp)、アルベルト・カルデロン(timb)、ホルヘ・ロペス(tp)、カタリーノ・ロロン(maracas & Vo)、ホセ・ルイス・モネーロ(vo)、フェリン・アングロ(p)とか、みなプエルトリコ人です。 ジョニー・コロン、チャーリー・パルミエリ、エディー・パルミエリもこの時代から登場ですね。 歌手も多いです。 ラファエル・エルナンデスから始まって、クラウディオ・フェレール、ラファエル・ロドリゲス、マヌエル・ヒメネスなどが30年代に活躍。 40年代はオルケスタ付きの歌手というパターンが多くなる時代ですが、ジョニー・ロペス、ファン・ラモン・トレス、エラディオ・ペゲーロ(ジャジョ・エル・インディオ)、ボビー・カポー、ダニエル・サントス(左写真)、サントス・コロンなどなど。 →YourTubeでボビー・カポを見る →YouTubeで若きダニエル・サントスを見る(ソノーラ・マタンセーラ在籍時代 →YouTubeでサントス・コロンを見る そして忘れてはならないのはトリオによるボレーロです。 ラテン音楽というとついリズミカルなものが浮かぶかもしれませんが、一方で「歌」を大切にする大事な系譜があります。これを語らずしてサルサを含むラテン音楽は語れないところです。本当はこの時代のNYへのボレロの影響で1章あってもよかったかも。 写真はNYのプエルトリコ・シアター。プエルトリコの"トリオ・ベガバヘーニョ"。ティト・ララ。キューバの"トリオ・マタモロス"、プエルトリコのカルメン・デリア・デピニ、エクアドルのカルロス・バリャドリー率いるロス・トレス・ギターラスと、ボレロひとつ取っても色々なな音楽家が混在しているのが分かると思います。 音楽産業でもNYのプエルトリコ人は色々活動していました。Verneレーベルのルイス・クエバス、レコード店"Casa Latina"のバルトロ・アルバレス、CodaやSMCレーベルとSpanish Music Centerのオーナー、ガブリエル・オレール、Ansoniaレコードのラファエル・ペレス、RCAでペレス・プラードからティト・ロドリゲスやノロ・モラレスのプロデュースを手がけたエルマン・ディアス、NYのラテン音楽の版権・楽譜を一手に引き受けているPeer International Music Publishingのラテン音楽部門を率いた女傑プロビデンシア・ガルシアも忘れられないですね。 と言った具合に、サルサが生まれる前のニューヨークにはすでに第一線で活躍していたプエルトリコ人が沢山いたのです。そして彼らは米国パスポートがある為、頻繁に本土と島を行き来しカリブで熟成された様々な音をニューヨークに持ち込み、またNYの音を島に持ち帰ることをしていました。プレーナやボンバ、メレンゲはその一例ですが、そんな風に音が育っていきます。 つまりキューバ音楽だけではなくプエルトリコの音楽や音楽家がエネルギーを貯めて、それがまた音楽の大好きなプエルトリコの聴衆と若い音楽家予備軍を擁していた時代があって、はじめてサルサの時代がやって来た、と言う訳でした。
by mofongo
| 2008-03-31 01:33
| Musica
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