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2008年 05月 28日
ウエストサイド物語とサルサとの関係は?(その1)
あるところで「ウエストサイド物語とサルサとの関係は?」というお題が出ました。

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ウエストサイド物語を始めて見たのはなんかのリバイバル上映のタイミングで中学生だったような。
「ふーん、プエルトリコ人って言うのがいるんだ~。JET団(ポーランド系)よりSHARK団(プエルトリコ)の方がなんかカッコイイな、ダンスも。」
とか思った記憶があります。それから10年も経たないうちにサルサと遭遇するとはつゆ知らず。

同じ頃、我が家にやってきたレコードにブルーノ・ワルターバーンスタインのクラシックがあって、結構これがかっこいいじゃん、と思ってよく聴きました。ロック(クリームとかツエッペリンとか)とR&B(アリーサ・フランクリンとか)と取り混ぜて聴いてた雑食性少年だった頃。(←今も変わらん・・)

それ以来、バーンスタインの隠れファンなのでまず彼の事から見てみようかと思います。

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ウエスト・サイド物語の数々の曲の作曲者レナード(レオナード)・バーンスタインは今のウクライナからアメリカにやってきたユダヤ人移民の子供として1918年に生まれました。ダニエル・サントスの2年後、ディジー・ガレスピーの翌年、カチャオと同い年、両ティト(Tito PuenteとTito Rodiriguez)の5年前という時期。

マサチューセッツで育ったバーンスタインの少年時代は、最初決して裕福でなく、親父さんは一生懸命働いたそうです。レナードはピアノを習い、音楽がとても好きな子供でした。

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中学から「ボストン・ラテン・スクール」に入学しました。名前は「ラテン」だけど「ラテン・アメリカ」とは関係ない学校。ここはハーバードより歴史の古い、ラテン語を中心とした公立の一流校で6年間のラテン語教育に加え4年間のフランス語という教育。彼は英語やヘブライ語などのベースもあり、選択科目のドイツ語も履修で、なかなかコスモポリタンになるベースが出来てますね。スペイン語は習ってないようです。

この中高時代には父親の仕事も軌道に乗り、住んでた場所もボストンの中流階級のエリアでカリブ・中南米スパニッシュの住むような場所でない事、また宗教的はユダヤ教のシナゴーク通いの生活ですから、カトリックともあまり交流がなかったのではと想像します。

音楽的にはクラシックを中心にジャズやポピュラーを聴いたり弾いたりしていたことは複数の伝記やインタビューから知れますが、ラテン音楽との直接の接点はまだ見受けられません。

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成績優秀で大学はそのままボストンのハーバードへ進み音楽を専攻しました。この中でクラシックを深く学んで行くわけですが、好きなことを大いに勉強し、学生生活をエンジョイした事と、公立校のボストン・ラテンでは体験しなかったいわゆるWASPのエリートからのユダヤへの人種差別に出会った事は、彼の考えに大きな影響を与えたと思います。欧州でのナチスの侵攻やユダヤへの迫害の時代ですね。

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彼が選んだ卒業論文のテーマは面白いです。「アメリカ音楽が取り込んだ民族的要素」というもの。ただそれはアメリカの作曲家たち、特にガーシュイン(写真右)(”ラプソディー・イン・ブルー”!)とコープランド(”エル・サロン・メヒコ”が有名ですね!)を取り上げ、彼らがアメリカ独自の音楽形式を創り出す為にジャズやラテンアメリカ(メキシコ)の影響にどう対応したか、という切り口。原典はまだ読んでませんが、ラテン音楽の素材を直接論じたり、研究したものではないとの事。

卒業後、フィラデルフィアの音楽院で学びニューヨークに転居。ここから指揮者、音楽監督として欧州やイスラエル公演も含め活躍が始まりますが、多忙な中、NY住まいで色々なものが彼の中に入り込み、ジャズを中心に流行音楽への持ち前の興味も発揮されたようです。革命前のキューバへバカンスに行き、「コンガ」(音楽の方)を気に入ったというエピソードもあります。

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さて、ウエストサイドですが、49年のまだ構想の段階ではタイトルは「イーストサイド物語」でマリアはユダヤ人、トニーはグリニッジ・ビレッジ出身のカトリックだった訳で、最初からラテンの話にしたかった訳ではなかったという事ですね。しかし宗教の違いの悲劇というモチーフから人種対立の悲劇へと変った背景には、バーンスタインのユダヤ系としての大戦中、そしてその後を通しての人種問題についての大きな悲しみや憤りが反映している事がひとつのポイントだと思います。

ミュージカルのウエスト・サイドと映画とはやはりかなり違ったものがあります。アービング・シュルマンが書いた、ミュージカル版の脚本を元にした小説を読むと、映画版は観客に分かりやすい「NYのプエルトリカン」が提示されている事が分かります。

これは「NYにプエルトリカンのストリート・ギャングがいる」ってことが一般の観客に当然のように受け入れられるくらい、NYの貧しい地域にはプエルトリカンの勢力があったという事ですね。

この事実がこの頃の(そしてその後の)NYのラテン文化のベースだという事がサルサの事を考えるのにとても重要です。

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ただ、「プエルトリカン=ストリート・ギャング」というステレオタイプな設定を選択したバーンシュタインは「ユダヤ」という人種的レッテルの悲劇を感じた人としてはかなり鈍感だとも言えます。NYのラテン人口の大きな部分を占めたプエルトリコ人の大部分は当然ギャングなどではなく、白人よりずっと安い給料と悪い労働環境の中で必死に生きていた人たち。そんな人たちにさらなる偏見の災いを与えた可能性が高いですから。

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‘50年代から60年代というのは大恐慌の’30年代に大量にアメリカにやってきたプエルトリカンの2世代目の子供たち学校に上がった時期です。島の文化の範疇にいますが、アメリカの勢いやかっこよさも耳に入る世代。しかし、ウエストサイド物語の『アメリカ』で男性軍が歌うように、アメリカはプエルトリカンのアメリカン・ドリームと言わないまでも、ささやかな幸せを実現させてくれるほどフェアではありません。

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(女性軍) アメリカが大好き。アメリカじゃ全てが自由 (Everything free)
(ベルナルド) 全てに金がかかるけど (For a small fee)

(アニタ) クレジットで買い物もできる (Buying on credit is so nice)
(ベルナルド) でも俺たちをみて2倍にふっかける (One look at us and they charge twice)
・・・・
(アニータ) 広くて新しいアパートが一杯!(Lots of new housing with more space)
(ベルナルド) でも俺たちには縁がない(Lots of doors slamming in our face)

(アニータ) ベランダ付きのアパート!(I'll get the terrace apartment)
(ベルナルド) その前にスペイン語なまりを直したら?(Better get rid of your accent)

(アニータ) アメリカじゃ人生は輝く(Life can be bright in America)
(男性軍) もし戦っていけるならね。(If you can fight in America)

(女性軍) アメリカじゃ人生は問題なし(Life is all right in America)
(男性軍) もし白人なら。(If you're all white in America)

(女性軍) ここじゃ自由でプライドがもてる (Here you are free and you have pride)
(男性軍) プエルトリコ人の中にいる限りはね (Long as you stay on your own side)

プエルトリカンの生活が偏見や差別にぶつかって容易ではないことが伺えますが、映画のウエストサイド物語のプエルトリカンはかなり「まし」な生活、または「単純化された」プエルトリカンで、現実はもっとハード。

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有名なプエルトリコ人の作家ピリ・トーマス(Piri Thomas)の代表作の一つ「Down These Mean Streets」を読んでみると、その時代の空気を吸い込むことが出来ます。このピリ・トーマスは1923年生まれ。まさにバーンスタインや両ティトと同世代です。但し大きく違うのは、彼は「肌の色が黒かった」事です。

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この為、彼は移民社会の中でも複雑な差別を受けます。プエルトリカンとして白人社会に、そして黒人社会からは英語もまともでない黒人として。なんともやりきれない環境の中で彼は麻薬に手を出し、事件を起こして刑務所暮らしも経験します。後年、エディー・パルミエリの名盤ライブ「Live at Sing Sing」で名高いSing Sing刑務所です。

このこの小説は彼の体験をベースにしたもので40-50年代のエル・バリオ(スパニッシュ・ハーレム)を描写が出てきます。かなりハード。

こんな、プエルトリカン・コミュニティーの現実に聞こえる音楽はどうだったのか?

(Part 2へ続く)(←長いな)

by mofongo | 2008-05-28 01:48 | Musica


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