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2008年 05月 28日
ウエストサイド物語とサルサとの関係は?(その2)
(Part 1より)

さてウエストサイド物語にもどって、作品がブロードウエーに出た1957年近辺のNYラテンをみて見ましょか。


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1957 ティト・プエンテ"Mucho Puente" Tito Puente
1957 ラファエル・コルティーホ"En New York" Rafael Cortijo
1957 ラファエル・コルティーホ"Fiesta Boricua" Rafael Cortijo





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1958 ティト・プエンテ"Dance Mania" Tito Puente
1958 ラファエル・コルティーホ “Bueno, y Que..?” Rafael Cortijo
1958 ティト・プエンテ “New Cha Cha/Mambo Herd” Tito Puente



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1959 ラファエル・コルティーホ"Quitate de la Via Perico" Rafael Cortijo
1960 ティト・ロドリゲス"At the Palladium" Tito Rodriguez
1960 ラファエル・コルティーホ “Danger” Rafael Cortijo
1960 セリア・クルース"La Dinamica!" Celia Cruz con Sonora Matancera
1960 チュイート・ベレス"Chuito Velez y Estrellas Boricuas"


1961 エディー・パルミエリ"Eddie Palmieri con his conjunto La Perfecta"
1961 ティト・プエンテ"Exciting Tito Puente Band in Hollywood" Tito Puente
1961 アレグレ・オールスターズ"The Alegre All Stars"

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1962 エル・グラン・コンボ"Meneama los Mangos" El Gran Combo
1962 レイ・バレット"Pachanga with Barretto" Ray Barretto
1962 ティト・プエンテ"Bossa Nova by Puente" Tito Puente
1962 ラファエル・コルティーホ&イスマエル・リベラ"Cortijo e Ismael" Rafael Cortijo & Ismael Rivera
1962 ウイリー・ロサリオ"El Bravo Soy Yo!" Willie Rosario
1962 ジョー・キハーノ"La Pachanga se Baila asi!" Joe Quijano
1962 トミー・オリベンシア"Trucu-tu" Tommy Olivencia




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1958年にはティト・プエンテの名盤で大ヒットの『ダンス・マニア』やティト・ロドリゲスの大ヒット『アット・ザ・パレイディアム』などが売れに売れた時期。

これは従来のラテン系以外のファン/ダンス・マニアが大いに支えていた事を示しています。最盛期/ピークですね。

同時に、NYに「ラテンあり」という事実が多くの人の意識に受け入れられるベースにもなっています。この両ティトはプエルトリカンですしね。だから、ウエスト・サイド物語の筋立てが一般の人に受け入れられ素地も、音楽の面からも育っていたと言えると思います。
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さて、ピーク/最盛期ということはマンボは既に出来上がった音楽として存在している時期。ある意味、両ティトも「マンボの次」に目を向け、パチャンガやらジャズやらボサノバへと手を打っていった時期ともいえます。

しかし、ラティーノ以外にもマンボが広がってウケテいる一方で、ラティーノの若者は別のものを探していました。

「大人が週末スクエアにボールルームでマンボ」といスタイルをカッコイイと思わない、少々とんがった兄ちゃん、姉ちゃん。厳しい生活の週末を、とにかくエキサイティングなダンスでしっかり楽しみたい兄ちゃん、姉ちゃん。

いつの時代でもありますね。そしてそんな音はたいていカッコイイ。そして、時にそれはワルかったり。

じゃ何がかっこよかったのか?

◆◆◆


マンボを聴いたり、パチャンガを聴いて、サルサを思ったとき、「なんか、スピード感とかビート感が違う」って思ったことありませんか?ブガルーからサルサへと繋がった、言われても「うーん、そうなのかなあ」って感じに思ったことないですか。

実はNYのマンボやチャランガ・バンドと並行してプエルトリコやカリブから生まれていたもう一つの流れがあるのです。

それがコルティーホ!

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ラテン・ダンス・マニアの32ページにエディー・パルミエリのインタビューがあります。その中にパレイディアムの土曜日はコルティーホで満員という彼の証言があります。
これがエル・バリオの実態。

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コルティーホの音を聴いてもらえると分かりますが、まず独特の粘るビート感と疾走するスピード感があります。もちろん、カリブらしいゆったり感やコミカルなノベルティー感のある曲もありますが、マンボやチャランガよりずっとワイルド。

そして、トランペットが主役となる事の多いソノーラや、バイオリン+フルートのチャランガ形式とは一線を画す、トランペット2本とサックス2本のサウンド。

そしてイスマエル・リベラのこれまたスリリングなボーカル。
マンボのような大編成でなく、グリンゴのバンドのような小編成だけどそれが迫力あるビートと絶妙の歌でかっこいい!

と説明するより聴いてみるのが良いですね。


YouTubeでQuitate de la Via Pericoを聴く

YouTubeでEl Negro Bembon
を聴く(1953年/映画”Marujaより)


YouTubeでChumalacatela
を聴く


この独特の疾走感は、ボンバとプレーナから来ている面が大きいと思います。
加えて、カリブ全体に共通する(例えばカリプソとすら)プエルトリコ特有の「匂い」「黒さ」があります。

この匂いや黒さがスクエアになってきたマンボやチャランガ・サウンドに飽き足らない島の若者、そしてプエルトリコの出島であるNYのエル・バリオの若者を捉えたのでしょう。この黒さや疾走感は、ひょっとしたら、NYで日常耳に飛び込んでくる「R&B」の魅力の一部と重なったものもあるかも。(ないかも)


ということで、ついでにこの頃のヒットも並べてみました。
イースト・ハーレムのお隣さん、同じく生活は厳しく差別にも合う、たまにはギャングもいるハーレムが支えるR&Bのヒットです。ロックンロールもあれば、ドゥーワップもありますね。もちろん英語の歌は直接プエルトリコの心に響いたかどうかは大いに疑問です。グリンゴ系ですからね。はたしてエル・バリオの若者の感覚はどうだったのか?
個人的にはレイ・チャールズならコルティーホと対抗できるかな、とか思います。

1957年
ザ・デル・バイキングス "Come Go with Me" The Del Vikings
ファッツ・ドミノ"I'm Walkin'
ザ・プラターズ" I'm Sorry" / The Platters

1958年
ザ・シルエッツ "Get A Job" / The Silhouettes
チャック・べりー "Sweet Little Sixteen"/ Chuck Berry
ザ・プラターズ "Twillight Time" / The Platters


1959年
ブルック・ベントン "It's Just a Matter of Time" / Brook Benton
ウイルバート・ハリソン "Kansas City" / Wilbert Harrison
レイ・チャールズ "What'd I Say (Part 1)" /Ray Charles

1960
ザ・ミラクルズ "Shop Around" / The Miracles


さて、そのかっこよさの話は、別のインタビューでも語られています。プエルトリコではたくさんあるので、一つコロンビアの話をしましょう。
コロンビアには「カリ(Cali)」というサルサのメッカのような街があります。グルーポ・ニーチェの本拠地ですね。

コロンビアのそれもカリブ海に面したわけでもない街が何故「パラシオ・デ・ラ・サルサ」と呼ばれるのか、それはまた別の機会にして、
とにかくカリやブエナベントゥーラ、バランキージャの50年代はコルティーホソノーラ・マタンセーラが大人気でした。マタンセーラは長いキャリアからしてうなづけるとして、コルティーホはがあっという間に人気を得た事からその勢いが分かると思います。

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その頃コロンビアの港町、ブエナベントゥーラはNYやフロリダ、カリフォルニアからやってくる船の寄港地でした。商船もあれば客船もあり、そして、今なんとなくパイロットがカッコイイ以上に船員はかっこよさの象徴でした。日本では石原裕次郎小林旭赤木圭一郎が演じる船員(マドロス)がかっこよかった、という時代と重なりますね。(左は赤木圭一郎主演作のホスター。1961年です。)



港に寄れば、NYの最新のスタイルの服を着て、飲みに行き、NYの流行のスタイルでバツグンのダンスを見せる。もう女性はうっとりですね。
そして、彼らは小遣いかせぎや自分の楽しみでNYで最新ヒットのレコードを携えてやってくるのです。

「まだ9才か10才のの頃、ジャマイカやプエルトリコとかから船員が街に着いたときの事を覚えてる。ほとんどグレース・ラインの客船の船員だった。彼らは「チョンボ」(Chombo)と呼ばれ、当時の音楽シーンにとても重要だった。それは格好いい服装だけでなくダンス
スタイルが最新のものだったんだ。そのステップたるやすごいもんだった。」

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こういう船員たちは褐色や黒い肌をしていたので「Negro Chombo」と呼ばれました。そう、トミー・オリベンシアが好きならご存知ですね。彼のヒット「Negro Chombo」はこのカッコよくて、遊び人のワルい船員の事を歌っているのです。

YouTubeでトミー・オリベンシアの"Negro Chombo"を聴く

「”グランド・コロンビア商船会社”が設立されると地元の人たちもアメリカと行き来するようになり最新のヒットを持って帰って来るようになったよ。1955年から1960年頃の話だ。髪をなでつけ、良いシャツとジーンズ、ガムを噛みながら片手に食品の土産を、もう一方に25から30枚のレコードを抱えて降りてくるんだ。そして港から家に長い道のりを歩く。街までなのになんで「長い」か、っていうと、街角のそこらじゅうで「何のレコード買ってきたんだ?見せてくれよ」「だめだめ。買ったのはコルティーホと、ダニエル・サントス、それからセリア・クルースで・・」とか話が始まるからさ」

("Memorias de Buenaventura" Medardo Arias /1989より)

マンボのブームはブームとして、こんな風にコルティーホの音は大きな支持を受けていたのでした。
◆◆◆


話がそれちゃいました。

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という事で、このウエストサイドの時代はマンボから若い世代がプエルトリカンの音楽へ大きく舵を切った、サルサにとってとても重要な時期なのです。コルティーホの音楽をしっかり聴いてみると、既に「サルサ」と呼んでもいいようなボンバやグアラチャの曲がたくさん見つかるでしょう。

そしてその時代の同じプエルトリコのミュージシャン、例えばモン・リベーラや最初期のトミー・オリベンシアにもサルサと言っていい曲が見つかると思います。
サルサって名前はもっと後に生まれてますが、それは「ラベリング」「ネーミング」の話。

もう一つ言えばキューバの系統ではソノーラ・マタンセーラです。この音の中、特にグアラチャには「サルサ」に通じるものがあります。

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マタンセーラの歌手はセリア・クルースがよく知られてますが、実はプエルトリコ人の大歌手が同じくたくさんのヒットを生み出しています。ダニエル・サントスボビー・カポミルタ・シルバ・・・・。コロンビアのネルソン・ピニェードもいました。つまり多国籍軍ですね。


今から30年くらい前に「1959年にキューバ革命があって、キューバ人音楽家が米国に入れず、代わってプエルトリコ人音楽家がサルサを・・・」とかいった人がいたようですが、それは今のようにネットもないしNYやPRやキューバやコロンビアやベネズエラの様子も分からなかった時の単純化した解説だと感じます。

今は情報もあるし、音楽好きな人(日本・海外)ともネットで気軽に話せるし、好きなCDやMP3で色んな音源が手軽に入る世の中なのは幸せで楽しいですね。いろんな事が自分で確かめられますもんね。

そんな中で今だに、30年前の解説を丸呑みにしている人はあまりいないとは思いますが、アマゾンでも簡単に音源が手に入るので色々聴いている方・聴いた方が、この駄文に茶々入れていただけるととてもうれしいです。
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by mofongo | 2008-05-28 03:00 | Musica
2008年 05月 28日
ウエストサイド物語とサルサとの関係は?(その1)
あるところで「ウエストサイド物語とサルサとの関係は?」というお題が出ました。

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ウエストサイド物語を始めて見たのはなんかのリバイバル上映のタイミングで中学生だったような。
「ふーん、プエルトリコ人って言うのがいるんだ~。JET団(ポーランド系)よりSHARK団(プエルトリコ)の方がなんかカッコイイな、ダンスも。」
とか思った記憶があります。それから10年も経たないうちにサルサと遭遇するとはつゆ知らず。

同じ頃、我が家にやってきたレコードにブルーノ・ワルターバーンスタインのクラシックがあって、結構これがかっこいいじゃん、と思ってよく聴きました。ロック(クリームとかツエッペリンとか)とR&B(アリーサ・フランクリンとか)と取り混ぜて聴いてた雑食性少年だった頃。(←今も変わらん・・)

それ以来、バーンスタインの隠れファンなのでまず彼の事から見てみようかと思います。

◆◆◆

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ウエスト・サイド物語の数々の曲の作曲者レナード(レオナード)・バーンスタインは今のウクライナからアメリカにやってきたユダヤ人移民の子供として1918年に生まれました。ダニエル・サントスの2年後、ディジー・ガレスピーの翌年、カチャオと同い年、両ティト(Tito PuenteとTito Rodiriguez)の5年前という時期。

マサチューセッツで育ったバーンスタインの少年時代は、最初決して裕福でなく、親父さんは一生懸命働いたそうです。レナードはピアノを習い、音楽がとても好きな子供でした。

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中学から「ボストン・ラテン・スクール」に入学しました。名前は「ラテン」だけど「ラテン・アメリカ」とは関係ない学校。ここはハーバードより歴史の古い、ラテン語を中心とした公立の一流校で6年間のラテン語教育に加え4年間のフランス語という教育。彼は英語やヘブライ語などのベースもあり、選択科目のドイツ語も履修で、なかなかコスモポリタンになるベースが出来てますね。スペイン語は習ってないようです。

この中高時代には父親の仕事も軌道に乗り、住んでた場所もボストンの中流階級のエリアでカリブ・中南米スパニッシュの住むような場所でない事、また宗教的はユダヤ教のシナゴーク通いの生活ですから、カトリックともあまり交流がなかったのではと想像します。

音楽的にはクラシックを中心にジャズやポピュラーを聴いたり弾いたりしていたことは複数の伝記やインタビューから知れますが、ラテン音楽との直接の接点はまだ見受けられません。

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成績優秀で大学はそのままボストンのハーバードへ進み音楽を専攻しました。この中でクラシックを深く学んで行くわけですが、好きなことを大いに勉強し、学生生活をエンジョイした事と、公立校のボストン・ラテンでは体験しなかったいわゆるWASPのエリートからのユダヤへの人種差別に出会った事は、彼の考えに大きな影響を与えたと思います。欧州でのナチスの侵攻やユダヤへの迫害の時代ですね。

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彼が選んだ卒業論文のテーマは面白いです。「アメリカ音楽が取り込んだ民族的要素」というもの。ただそれはアメリカの作曲家たち、特にガーシュイン(写真右)(”ラプソディー・イン・ブルー”!)とコープランド(”エル・サロン・メヒコ”が有名ですね!)を取り上げ、彼らがアメリカ独自の音楽形式を創り出す為にジャズやラテンアメリカ(メキシコ)の影響にどう対応したか、という切り口。原典はまだ読んでませんが、ラテン音楽の素材を直接論じたり、研究したものではないとの事。

卒業後、フィラデルフィアの音楽院で学びニューヨークに転居。ここから指揮者、音楽監督として欧州やイスラエル公演も含め活躍が始まりますが、多忙な中、NY住まいで色々なものが彼の中に入り込み、ジャズを中心に流行音楽への持ち前の興味も発揮されたようです。革命前のキューバへバカンスに行き、「コンガ」(音楽の方)を気に入ったというエピソードもあります。

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さて、ウエストサイドですが、49年のまだ構想の段階ではタイトルは「イーストサイド物語」でマリアはユダヤ人、トニーはグリニッジ・ビレッジ出身のカトリックだった訳で、最初からラテンの話にしたかった訳ではなかったという事ですね。しかし宗教の違いの悲劇というモチーフから人種対立の悲劇へと変った背景には、バーンスタインのユダヤ系としての大戦中、そしてその後を通しての人種問題についての大きな悲しみや憤りが反映している事がひとつのポイントだと思います。

ミュージカルのウエスト・サイドと映画とはやはりかなり違ったものがあります。アービング・シュルマンが書いた、ミュージカル版の脚本を元にした小説を読むと、映画版は観客に分かりやすい「NYのプエルトリカン」が提示されている事が分かります。

これは「NYにプエルトリカンのストリート・ギャングがいる」ってことが一般の観客に当然のように受け入れられるくらい、NYの貧しい地域にはプエルトリカンの勢力があったという事ですね。

この事実がこの頃の(そしてその後の)NYのラテン文化のベースだという事がサルサの事を考えるのにとても重要です。

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ただ、「プエルトリカン=ストリート・ギャング」というステレオタイプな設定を選択したバーンシュタインは「ユダヤ」という人種的レッテルの悲劇を感じた人としてはかなり鈍感だとも言えます。NYのラテン人口の大きな部分を占めたプエルトリコ人の大部分は当然ギャングなどではなく、白人よりずっと安い給料と悪い労働環境の中で必死に生きていた人たち。そんな人たちにさらなる偏見の災いを与えた可能性が高いですから。

◆◆◆


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‘50年代から60年代というのは大恐慌の’30年代に大量にアメリカにやってきたプエルトリカンの2世代目の子供たち学校に上がった時期です。島の文化の範疇にいますが、アメリカの勢いやかっこよさも耳に入る世代。しかし、ウエストサイド物語の『アメリカ』で男性軍が歌うように、アメリカはプエルトリカンのアメリカン・ドリームと言わないまでも、ささやかな幸せを実現させてくれるほどフェアではありません。

◆◆◆

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(女性軍) アメリカが大好き。アメリカじゃ全てが自由 (Everything free)
(ベルナルド) 全てに金がかかるけど (For a small fee)

(アニタ) クレジットで買い物もできる (Buying on credit is so nice)
(ベルナルド) でも俺たちをみて2倍にふっかける (One look at us and they charge twice)
・・・・
(アニータ) 広くて新しいアパートが一杯!(Lots of new housing with more space)
(ベルナルド) でも俺たちには縁がない(Lots of doors slamming in our face)

(アニータ) ベランダ付きのアパート!(I'll get the terrace apartment)
(ベルナルド) その前にスペイン語なまりを直したら?(Better get rid of your accent)

(アニータ) アメリカじゃ人生は輝く(Life can be bright in America)
(男性軍) もし戦っていけるならね。(If you can fight in America)

(女性軍) アメリカじゃ人生は問題なし(Life is all right in America)
(男性軍) もし白人なら。(If you're all white in America)

(女性軍) ここじゃ自由でプライドがもてる (Here you are free and you have pride)
(男性軍) プエルトリコ人の中にいる限りはね (Long as you stay on your own side)

プエルトリカンの生活が偏見や差別にぶつかって容易ではないことが伺えますが、映画のウエストサイド物語のプエルトリカンはかなり「まし」な生活、または「単純化された」プエルトリカンで、現実はもっとハード。

◆◆◆

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有名なプエルトリコ人の作家ピリ・トーマス(Piri Thomas)の代表作の一つ「Down These Mean Streets」を読んでみると、その時代の空気を吸い込むことが出来ます。このピリ・トーマスは1923年生まれ。まさにバーンスタインや両ティトと同世代です。但し大きく違うのは、彼は「肌の色が黒かった」事です。

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この為、彼は移民社会の中でも複雑な差別を受けます。プエルトリカンとして白人社会に、そして黒人社会からは英語もまともでない黒人として。なんともやりきれない環境の中で彼は麻薬に手を出し、事件を起こして刑務所暮らしも経験します。後年、エディー・パルミエリの名盤ライブ「Live at Sing Sing」で名高いSing Sing刑務所です。

このこの小説は彼の体験をベースにしたもので40-50年代のエル・バリオ(スパニッシュ・ハーレム)を描写が出てきます。かなりハード。

こんな、プエルトリカン・コミュニティーの現実に聞こえる音楽はどうだったのか?

(Part 2へ続く)(←長いな)
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by mofongo | 2008-05-28 01:48 | Musica